「我が身を任せる医者」の選択

小諸 真澄(札幌市)

 3年程前、風邪をこじらせ、咳が止まらなくなった。
 市販の薬でしばらく様子を見たが改善せず、重い腰をあげ勤務先近くの病院にかかることにした。肺のレントゲンは異常なく、「まぁ、喘息のようなものでしょう。」ということで、咳止めの飲み薬の他、気休めにと気管支拡張剤が出された。「薬がなくなってもまだ咳が出るようだったら、また出しますから。」そのうち薬が効いて治るだろうと、医者も自分も安易に考えていた。ハウスダストなど10種類のアレルギー検査も反応を示さず、原因がわからないまま初診から3週間が経過、咳はひどくなるばかりだった。日中はもちろん、夜中にも突然目が覚め、1時間ほど咳き込むようになり、そのたびに背中をさする家族共々、すっかり寝不足となった。毎日がその状態で腹筋が疲れ切ってしまい、いつものように咳に襲われた深夜、突然脇腹に激痛が走った。どうやら腹筋のサポートが弱まり、肋の軟骨が咳の衝撃に耐えられなかったらしい。それでも容赦なく出る咳に、肋骨を押さえ脂汗をにじませながら唸る。
 翌朝、迷わず大病院に直行した。車の振動に唸り、待合室でも咳が出るたびわき腹を抱えてうずくまり、周りの患者さんからも気遣われた。医者に症状を説明しようにも咳と痛みで言葉にならず、同行した家族が代わった。やはりレントゲンに影はなく、「折れた軟骨は放っておいても大丈夫。喘息ですね。」と言われ、喘息の薬と気管支拡張剤が処方された。喘息の診断に、少々滅入る。風邪も滅多に引かない自分が、何故突然にという思いはあった。しかしそれにも増して、薬の力でもなんでもいい、咳から開放される期待の方が大きかった。
 ところが、処方された薬を飲み始めた翌朝、いつも通り出勤した時に異変は始まった。耳がキーンと鳴り、目がチカチカする。10mも歩くと息が苦しくなり、あたり構わず物に掴まり肩で息をする。追い越す人々も妙な顔で覗き込むが、取り繕うにも窒息しそうでどうにもならない。10~20m毎にそれを繰り返すものだから、通勤に普段の何倍もの時間を要した。劇薬という気管支拡張剤も、逆に咽て咳が止まらなくなる。
 1週間後の診察でその話をしたが、そういう病気なので仕方がない、気管支拡張剤は1日2回欠かさず、薬はこのまま続けるようにと指示された。治りたい一心で何種類もの薬を規則正しく飲むが、咳は治まらなかった。ついには、夜中に3度は目が覚め、その都度1時間以上の咳が続くという状態になっていた。やっとの思いで勤務先を往復、帰宅するなり寝室に直行し横になる、昼夜を問わず咳が襲う、そんな毎日で身体がフラフラだ。喉からは血がにじみ、筋肉は衰え、腹部に力が入らず、起き上がることも辛い。我が家でありながら、しばらくの間、寝室、洗面所、風呂場以外に足を踏み入れることはなかった。咳で頭が振られて目眩がし、力んで目にいっぱい星が現われるので、頭の血管がプツッと切れてしまうのではないかという不安にかられた。寝不足を強いられる家族にも、重大な影響が出始めた。どう見ても、薬は効いていないと思う。それどころか、20mも歩けないほど呼吸が乱れるのは、この薬を飲み始めてからだ。
 3週間目の診察で、立て続けに出る咳の合い間に少しずつ言葉を繋げ、ようやく医者にこのことを告げた。そこで返ってきた医者の言葉は、あまりに衝撃的だった。「あなたは喘息なんだよ。前の身体じゃない、おかしいって言ったって、もうそんな身体になってしまったんだよ。歩いていて呼吸が苦しいのは、喘息の典型的な症状だ。あなたが治してほしいと言って来たから薬を出してやっているのに、何の文句があるんだ。薬がいらないなら、もう来なくていい。」そう言い放たれ、診察室を追い出された。
 やっとの思いで病院まで辿り着いた状態である。反論する気力も、その後の策を講ずる体力も、もはや持ち合わせていなかった。医者の前で、弱い患者は無力だということが思い知らされた。新たな薬の試みもなく、前回もらった効かない薬もやがてなくなる。しばらく放心状態のまま待合室で座り込み、タクシーで帰宅し、そのまま寝込んでしまった。信頼していた大病院に見放されたショックは、大きかった。身体が病むと、心まで病んでしまうのか、このまま咳込み死んでいくのだろう、死因は喘息による呼吸不全か、健康を自負していたが、死期というのは意外に簡単に訪れるものだと思い始め、どうせ仕事も日常生活も満足にできない身体なんだからもうどうでもいいと、自暴自棄になった。
 こんなことを続けていれば、間違いなく心身の健康も、職も、生活も、そして命までも失いかねなかった。
 親族に、レントゲンの権威がいる。80歳にして、現役のレントゲン技師。恐れ多いが、藁をも掴む思いで連絡を取ってもらった。数日後、指定された病院に行くと、親族の後輩であるレントゲン技師に丁重に迎えられた。呼吸器の名医といわれる医者の初見は、「喘息ではないですね。」。検査が始まり、レントゲン室に案内された。同行した家族によると、親族とレントゲン技師達で2枚の胸部写真を検討、即座に何かが発見されたようだが、「自分はレントゲン技師、診断は医者が下す。」との事で、それが何であったかは聞かされなかったらしい。その2枚の写真は医者に回ったが、「肺はまったく問題ないですね。」と言われただけで終わり、血液検査などを総合し、「気管支過敏」と診断された。体力が低下したためか、肝機能障害も起こしている。肝臓の数値はいつも優等生だったのに、こんな所にまで病魔は及んできたのかと、動揺した。傲慢な医者が処方した薬を見せたが、「これでは、あなたの咳は止まりません。」ということで、新たな薬が処方された。2日ほどで薬が効き始め、やがて肝臓の数値も正常に戻った。3週間の服用で、実に3カ月近く悩まされ続けた咳は完全に出なくなり、病院と全ての薬から開放された。
 親族は、「名医といわれる人達が集まっても、診断が1つとは限らない。3人の医者がいれば、3通りの診立てがあるものだ。納得できなければ、違う医者の診断も受けなさい。」と、セカンドオピニオンを提言してくれた。レントゲン結果については、「そうか、医者は何も言わなかったか。」と言って、押し黙った。「教えてくださいよ。」と簡単に聞ける相手でもなく、結局闇の中だ。
ちなみに、今年受けた健康診断で、「昔、何かやった跡」があるとレントゲン課でチェックしてきたが、確かに昨年の写真にも同じように映っていたと言われた。恐らく、この時の何かなのではないかと推測する。
 セカンドオピニオンが提唱され始めた昨今だが、その考えがどれほどの医者に受け入れられるのか疑問に思う。滅多に病院に行くことはないが、今回とは別の病で応急処置に勤務先近くの整形外科にかかり、激しい痛みに耐えられず最新鋭の検査装置を備えている大病院で再度診察を受けようとしたところ、そこの医者に「何故医者にかかっていながら、ここに来たんだ。私が診断したって、どうせまた別の病院に行くんだろう。そんな患者は診る気もしない。」と怒鳴られたことがあった。経緯を説明するが、なおも声を荒げ蔑んだ目で見られた時の惨めな思いは、病の激痛をも忘れさせるものだった。この医者に、セカンドオピニオンという言葉など通用しないだろう。後で聞いた話だが、患者を怒鳴り散らすことで有名な医者らしい。患者は萎縮し、崇める気持も生まれず、治癒にいい影響を及ぼすとは考えられない。結局、この医師に身を委ねることはなかった。
 怒鳴った整形外科医、傲慢な呼吸器内科医、実は同じ病院の医者だ。自分が産まれたその病院には、特別の思い入れがあった。出生時の不具合を治してもらったありがたい病院だと聞かされて育ち、半世紀もの間家族の病気の拠り所となっていたが、それも過去の話となった。2人の医者によって、その病院に対する思いが激変したのは言うまでもない。病院で選ぶ時代は、終わったのだろう。
 咳は、セカンドどころかサードオピニオンでようやく快方に向かった。最後に下された診断が、咳の原因のすべてを言い表した病名であったかどうかはわからないが、適切な処方をしてくれた医者には心から感謝している。健康を取り戻した今思えば僅か3カ月弱であったが、原因も治るかどうかも定かではない日々は長く、この期間で終息を迎えさせてくれた医者との出会いは、幸運なことだったのだろうと思う。
 病んでいる患者は医者の力に縋るしかなく、その医者のひと言で運命が左右される。傲慢な医師の言うままあの薬を飲み続けていたら、一体自分の肉体や精神がどうなっていたのか、考えただけでぞっとする。幸いなことに、同じ医者のキレたひと言が、この病を完治へと導いた。健康になったからこそ今あれこれと思いを巡らせることができるが、病んでいる時には考える余裕もなく、ただ受け入れるしかなかった。我が身は1つ。むやみに病院を渡り歩きたくはないが、どうしても医者の診立てや医者本人に不安を抱いた時、医者1人だけに大事な自分の運命を任せるのではなく、患者自身が見極め、新たな意見を求める勇気を持つことも必要だと、身をもって感じた。